素読学習を支援するwebアプリケーション『素読庵』を開発した。 本記事では、その思想的背景や、なぜ「webアプリ」という形に至ったのかという実践的な経緯を記しておきたい。


素読は「関係性」を整える学習

子どもと一緒に漢文の素読を始めてしばらく経つ1。続けるうちに、はっきりとわかったことがある。

親子が、漢文を共に音読できる関係になること自体に、まず大きな価値があるということだ。 これは実際にやってみた者にしかわからないだろう。

最初は正直、気恥ずかしさがあったような気がする。素読をやろうと思い立ったものの、本当に今からこれを我が子と読むのだろうかと、よりどころのなさを感じた覚えがある。 向かい合って古典を読むという行為は、現代の生活の文脈から明らかに外れている。 空気の作り方や間の取り方も、当然ながら日常の会話とは全く違う。

しかし、初めの頃に感じたぎこちなさを越えたところに、普段とは質的に異なる時間が生まれた。 それは「教える・教わる」という構図ではなく、人と人との関係の基礎を整える営みだと感じている。

子どもにとっては(大人にとっても?)難解であろう読み下し文を共読し、つい文意を説明したくなる気持ちをぐっとこらえる。 なぜなら、時の試練をくぐりぬけてきた偉大な言葉を、「ていねいな説明」によって指導者の口金の形に押し出してしまうのは愚かだからだ。 それこそ、その場でなんだかわかったような気になれるという、目先の成果を急いだ行為だろう。 素読の効果なんていうものは、30年経ってにだんだんと腹落ちしてくるような時間スケールでよいのである。

意味はさておきひたすら読むに徹する、つまり指導者の能力にほとんど依存しないところにも、素読は公教育の実践手段としてのポテンシャルを秘めているように思う。

教育の神聖さを取り戻す時間

現代において「教育」は、サービスや商品の一種に成り下がりつつある。 顧客が支払った対価に対し、受験というある時点における成果を最大化することで報いようとすると、即ち効率化が必要になる。 そこにはもう、人が育つということの尊さが抜け落ちがちだ。

素読の時間には、それがある。

姿勢を正し、声をそろえて2500年前の言葉を味わう。 そこには即効性も派手さもないが、教育が本来持っている神聖性を、令和の時代の今日でも確かに感じることができる。

毎朝、訓読を通して文語の日本語に触れることで、子どもの中に日本語の情緒が少しずつ染み込んでいくのを感じている。

親として、我が家の「善きもの」を押し付ける

どんなものを「善きもの」とするかは、きわめて主観的であり、また各個人の自由だ。 それでも私は日本人の親として、孔子たちの示した君子のあり方を、我が家における「善きもの」として子どもに押し付けることを選んだ。

道行く人々の身なりを見れば、現代においてどんなものが「善きもの」とされているのかは大体わかる。 どんなものに憧れを抱くかという個人の価値観は、集団の価値観と双方向に影響している。 一見些細なことに思えるかもしれないが、最終的に行き着くところは国家としての品性だ。

家庭の教育方針が、親の好みによってほとんど決まる側面はどうしてもあるだろう。 いや、子どもを自由にさせることで持って生まれた素質を伸ばすという考え方の人たちにとってはあってはならないことなのかもしれない。 私も、ヒト(ホモ・サピエンス)本来の能力を削がないように育てる考え方や、人としてちゃんと育つことをねらった考え方があることも知っている。 それは大変結構だと思うが、私はそれだけでは満足できない。 幸運にも、誇り高き文化を持った日本という島国に生まれ、ここで子どもを授かった親としては、かつての立派な日本人を造った教育を見逃すわけにはいかないのである。

礼節を身につけるきっかけ

実はこれまでに、我が子の何気ない、しかし言うなれば無礼な振る舞いに驚かされたことが何度かあった。 いったいどういう感覚をしていたら、そんな真似ができるのだろうと当時は戸惑ったものだが、考えてみれば、大人が「当たり前」と感じている礼節も、生まれつき備わっているものではない。 あくまでも人生経験の中で、周囲の人々の所作やその場の雰囲気と共に覚えた、身体的な「知識に」過ぎないのだ。

このことを度々思い出しながら、我が家では素読は正座、前後に一礼のスタイルを続けている。 最初は形だけでもいい。形が習慣になり、習慣が感性を育てる。

礼節は説明して理解させるものというより、姿勢・所作・間合いの中で静かに身につくものなのだろうと思う。

孝とは「相互尊重へ向かう交通ルール」

孝というと、「目下が目上を敬うこと」だと単純に受け取られがちだ。 しかし私には、それは人間関係を円滑にするためのルール、言うなれば右折車同士の優先順のようなものに思える。 どちらが先に敬意を示すかが予め決まっていれば、関係はぶつかりにくい。 けれど最終的に達成されるのは、一方向の服従ではなく、互いを尊重し合う関係である。

年長者を敬うという感覚が薄れた現代社会では、世代間の摩擦音がいたる所で聞こえる。 孝は決して古く窮屈な考え方などではなく、人と人が穏やかに関わるための知恵なのだと思う。

なぜwebアプリケーションという形にしたのか

率直に言うと、作りたかったから。 素読を実践するうちに、私はこれが現代の日本人に必要なものと確信するようになった。 練習を効率化したいとか、そんな理性的な理由ではなく、この「善きもの」をweb技術による配布網に載せることはまた私にとって「善き行い」に思えた。

論語には政治の話が多く出てくる。直接的には為政者向けの書物のようだが、それは違う。 国が治まるためには、国民が善き人々になる必要がある。 そしてそのためには当然、各人が自らを修めることが必要だ。 自分の立ち居振る舞いを整えることが社会につながっているという考え方は大げさなようで、我々大人こそ自覚したい。

今日では、毎朝子どもと論語を読むと言うだけで変わった家庭のように見られるかもしれないが、決してそうではない。 かつて論語は、全国無数の寺子屋で素読されるごく一般的な教材だった。 まずは自分の周囲から、この営みをなんとか取り戻していきたいと思っている。

古典を「構造として見る」楽しみ

開発を進める中で、思いがけない発見もあった。四書五経は、思想の宝庫であると同時に、人物・概念・対話が絡み合う巨大なネットワークでもある。

誰がどの徳目を語り、どんな関係の中で思想が展開されているのか。 それを視覚的に眺めてみたいという好奇心が芽生え、データの可視化機能も加えた。

古典は、思想の地図でもあるのだ。

おわりに

素読庵』はwebアプリという形をとっているが、もし使ってくれる方がいたならば、お子さんとの素読はぜひ画面の外でやっていただきたい。 これはあくまでも、大人の指導者の練習を支援する意図で作ったものである。 私が大切にしたいのは、子どもと向かい合い、東アジアの至高の古典を味わうことと、それによって作られる大人と子どもとの関係性だ。

2500年前の言葉を表示するだけのこの役に立たないアプリを眺めると、効率ばかりを考えて現代社会を生きることの忙しなさと虚しさを感じていただけるかもしれない。

Footnotes

  1. 2025年の6月から継続している